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広島「原爆の火」今もなお燃え続けて… [├ヒロシマ・ナガサキ]

原爆の火のお話は、ずっと昔に聞き及んでいました。
平和の塔が建立されたのは、私がまだ物心つく前でした。
老朽化し新しく建立された塔へ移された事は、新聞で知りました。

そしてその「火」を守っていらした方がお亡くなりになった事は、
様々なメディアを通して、リアルタイムで知ることが出来ました。

今日、取り上げさせて頂くのは、そんな「原爆の火」を死して尚、守り続ける
身を以って「戦争を語って」下さった方の記事です。

平和の塔 平和の塔~原爆の火~


季節柄、どうしても戦争絡みの記事が目に付いてしまいます。
筆者自身も過分な思い入れもあり、それを手伝っているようで
どうしても他のエントリよりも多くなってしまいます事をお許し下さい。

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「原爆の火」守り続けて…
2008.8.3 07:22 MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080803/trd0808030722003-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080803/trd0808030722003-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080803/trd0808030722003-n3.htm

山本達雄=平成16年死去、享年88歳=の目に映ったのは、まさに地獄だった。

男女の区別もつかないほど黒く焼けこげた死体があった。皮膚が溶けてしまい、指先から垂れ下がっている人もいる。目の前には火の海が広がり、すすと血にまみれた人々のうめき声が聞こえた。「兵隊さん助けてください」。達雄は自分を頼る市民の手を振り払いながら、目指す陸軍司令部に向けて足を進めるしかなかった。

昭和20年8月6日午前8時15分。広島市内にあった司令部に汽車で向かっていた達雄は、突然の爆風で気を失った。原子爆弾の投下だ。

一瞬にして広島の街を灰燼(かいじん)に帰した原爆は、同時に多くの人の命を奪った。終戦後も軍務処理のため広島に留まった達雄は、遺体を焼き、川に流し続ける日々を送った。「死にたい」。治まることのない苦痛を訴える人の口を、静かにふさいだこともあった。

「『兵隊さん、この敵(かたき)は必ず取ってくれ』と言ってくる人もいたそうです。父が『分かった』というと、その人たちは安心して死んでいったそうです」。達雄の二男、拓道(たくどう)(58)はそう述懐する。

広島市内では達雄の叔父、弥助が書店を経営していた。9歳で実父を亡くした達雄にとっては父代わりだった弥助だが、原爆で行方不明になっていた。

9月半ば。復員命令が出たあとで弥助の“遺品”を探しに書店があった場所に向かった。すべてが灰と化していた中、地下室でまだ燃え続ける小さな炎があった。弥助の命を奪った原爆の残り火だったが、達雄には形見のように思えた。

持っていたカイロにその残り火を移し、故郷である福岡県星野村まで持ち帰った。原爆投下から63年。今もその火は静かに燃え続けている。

                  ■

石積の棚田が四季折々の顔を見せ、夏には清流をホタルが舞い飛ぶ。その名の如く満天の星空が降り注ぐ星野村は、原爆の火には似つかわしくない自然郷だ。

達雄は原爆の火を火鉢やカマドの薪に移し、決して絶やさなかった。家族にも理由は説明しないが、その火への執着は強く感じられた。昭和41年、村の特産である茶の取材に来た新聞記者に、たまりにたまった思いをぶちまけるまで、達雄はひとりでその火を守り続けていた。

「父にとって、叔父の供養の火であり、原爆でなくなった人々を弔う火であり、恒久平和を願う火であり、怨念(おんねん)の火でした」

戦争を忌み嫌い、平和を望みながらも、「敵を取ってくれ」と苦しみながら死んでいった人たちが忘れられなかった。「いつかこの火でアメリカを焼き払ってやる」。そうわめくときもあったという。

新聞に取り上げられて有名になった達雄の火は43年、星野村が建立した「平和の塔」に移された。平成7年には新しく建立された塔に移され、「平和を祈念する象徴」として歩き始めた。

「達雄さんは『憎しみからは何もいいことが生まれない。憎しみを少しでも平和への思いに変えなくては』と話していました」。達雄の物語「The Keeper of the Flame」(海鳥社)の著者、飼牛(かいご)万里(中村学園大学教授)は生前の達雄を取材した際、「自分の平和への思いを伝えてくれ」と頼まれたという。

「被爆者が大変な思いをしているのに、なぜまた核兵器をおもちゃのように扱う人がいるのか」。達雄は飼牛を前に、怒りを隠さなかった。何十回も星野村に足を運んだ飼牛は、「平和への思いを火に託していたように感じた」という。

平和の火は現在、新潟鹿児島など全国14団体に分火されている。昭和63年にはニューヨークで開催された国連軍縮特別総会の「平和の火リレー」にも用いられるなど、「平和の象徴」として灯され続けている。

                  ■

達雄は、自分が広島から持ち帰った火に対して生涯、相反するような複数の感情を持っていた。

80歳を過ぎた達雄に向かって、知人が「火は村が維持してくれるから安心して死ねるだろう」と言ったとき、「おれはそんな薄情な男じゃない。敵を討つと広島でたくさんの人と約束したんだ」と怒鳴ったという。拓道が原爆の話をすると、「お前に何が分かるか」と杯が飛んできたこともあった。

一方で、寝たきりになった晩年でも戦争のニュースが流れると立ち上がり、「これではいかん」と怒りをあらわにした。「人間同士が殺し合うような愚かなことは、もうそろそろやめないかん」。達雄は最期、そう言って息を引き取ったという。

「父は『死ぬまで“戦争”を肩から下ろせなかった人』。戦争や平和について自分で考え、それを否定し、また考えるという繰り返しだったのだと思います。だからこそ、持ち帰った火を単純にとらえることができず悩んでいたのだと思います」

住職でもある拓道は、父を「悟りきれなかった人」と表現するが、決して見下しているわけではない。

「私は、悩みながら生き抜いた父に人間としての強さと弱さを感じます。しかし人間のその悩みながら生きる姿こそが、戦争を抑止できる一番の力になるのではないでしょうか」

8月6日。今年もまたヒロシマがやってくる。「達雄の火」は今も語りかけ続けている。=敬称略 (文・写真 加田智之)

何があっても核兵器を以って、戦いを征するような戦争は起こしてはなりません。
核は当事者だけでなく次の世代にまで、大きく苦しい傷を残します。
原子爆弾の世界で唯一の被爆国の一員として、このことだけには何があっても反対し続けます。

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コメント 4

みかんママ

saki-k様

ようこそ♪
nice!ありがとうございます。
by みかんママ (2008-08-04 09:52) 

みかんママ

kobakoba様

いらっしゃいませ~♪
いつもnice!ありがとうございます。
これからもよろしくお願いしますm(_ _)m
by みかんママ (2008-08-04 09:53) 

みかんママ

元気様

ようこそ♪
nice!ありがとうございます。

by みかんママ (2008-08-04 21:02) 

元気

みかんママさん、こんばんは。

私もこの記事拝見しました。
たくさんの方に読んで欲しい記事ですよね。
そして、考えて欲しいと思います。
先の大戦のことについて。亡くなられた人々のことを。

けっして、日本国を恨んで死んだのではないということを…
何から守ろうとしたのかを…
何を守ろうとしたのかを…
by 元気 (2008-08-04 21:07) 

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